千体仏地蔵堂
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写真は地蔵堂厨子内部の千体仏
地蔵堂 じぞうどう
天王通3丁目 駐車場なし
  天王通りに面してお堂が建っています。このお堂の中には厨子があり、その厨子の中には21cmの地蔵坐像を中心として、5cm程の1,007体の小さな仏像が階段のある岩壁のように作られた後背にぎっしりと並びつけられ、一つの仏画のようになっています。千体の仏像には地蔵像・稲荷像などもあり、仏像の表情がすべて異なり、見る人を圧倒します。他に厨子の中には、善財童子、護法神、韋駄天の3像も納められています。
 この仏像を彫った円空(1632〜1695年)は美濃国竹鼻(現羽島市)に生れ、美濃弥勒寺(現美濃市)で亡くなりました。生涯に12万体という仏像を彫りながら全国津々浦々を遍歴したと言われています。円空が彫った木像は、鉈彫りによる素朴で大胆な作風が特徴で、円空仏と呼ばれ美術愛好家に評価されています。
 この千体仏は延宝年間(1673〜1681年)の作品と考えられ、円空の千体仏が完全な形として残っているのは津島だけです。同様な仏像は名古屋市守山区の竜泉寺に約六百体、また、名古屋市中川区の荒子観音寺には木っ端仏が約千体(千面菩薩像と呼ばれている)残っています。
 地蔵堂の厨子が開帳されるのは、地蔵盆(旧暦7月24日)です。
 また、地蔵堂の横には町内の祠が建っており、津島神社・伊勢神宮・秋葉神社の御札が奉納されています。

<周辺情報>
 天王通りから路地を入ると西方寺(岳翁山西方寺 さいほうじ 天王通4−23 浄土宗鎮西派)があります。西方寺はもと橋詰にありましたが、火難を避けて延享4年(1747年)に奴野城跡と伝えられる当地に移転しました。奴野城は『浪合記』によると、「正慶元年に大橋三河守定高が築く」と記され、天正の頃(戦国時代末期)には廃墟となっていたと伝えられています。当寺がある地名はもともと沼のある低湿地帯の「沼之谷」であり、転じて「奴ノ野」に、そして「布屋」になったと考えられています。
 境内や本堂裏の墓地には楠の大木が何本か生えています。山門を入って左に十王堂があり、地蔵菩薩、閻魔大王などの像が安置されています。この十王像は橋詰にあったものですが、西方寺の移転に伴って移りました。
 当寺は尾張藩主との関係が深く、津島の天王まつりに代参する使者はここを宿坊としていました。
 また、同じく千体仏地蔵堂から東へ向かうと、天王通りに面して「常楽禅寺」と書かれた石柱門があります。常楽寺(補陀山常楽寺 じょうらくじ 天王通5−10 曹洞宗)の御本尊は如意輪観音坐像(にょいりんかんのんざぞう)です。庫裏の前に小さな庭があり、かわいらしい道祖神が祭られています。
 開山は元中9年(1392年)太初継覚和尚(たいしょけいかくおしょう)で、津島牛頭天王社神主であった氷室家の創建と伝えられ、代々神主家の菩提所でした。津島牛頭天王社神主は江戸時代末まで世襲で氷室家が代々務めていました。
 当寺には市文化財に指定されている木彫肖像が伝えられています。人物名は不明ですが、黒袍(くろのほう)を着て冠を付け笏を持つ高さ40cmの像です。
 かつて塔頭として瑞雲山高正寺がありましたが、廃寺となり、御本尊の千手観音は常楽寺に移されました。常楽寺は海東西新四国八十八ヶ所六十一番札所です。


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