歴史と文化の街 津島 まんなか わくわくWEB
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 “津島”という地名が歴史に出てくるのは12世紀(平安時代末期)です。それ以前は“馬津”と呼ばれていたという説があります。津島にも馬津にも「津」という字がありますが、これは、湊・港を指す言葉です。今では想像も出来ませんが、昔は木曽川の支流・天王川が南北に流れ、湊があったのです。
 津島付近には古代の遺跡が散在しており、人が住み、神社仏閣があったと推定されていますが、街としては鎌倉時代から湊を中心に発展しました。中世の京都と鎌倉など東国を結ぶ古東海道の尾張の玄関口に位置し、伊勢桑名との航路が活発になったためです。
 また、同時に津島牛頭天王社(現在の津島神社)の門前町としても発展してきました。さらに、街の発展と鎌倉時代の宗教改革による寺院の進出が一致したことが、市街にとかくお寺が多いという特徴となりました。
 この時代を著す資料として『浪合記』があります。『浪合記』は、江戸時代に書かれ、歴史書としては偽書とも言われていますが、登場する寺院が残っている、四家七名字と呼ばれる姓が津島近郊に多いという事実もあります。『浪合記』は、南北朝時代、南朝の後醍醐天皇の末裔・良王君(よしたかぎみ)の生涯についての物語で、北朝に追われ、四家七名字(大橋・岡本・山川・恒川・堀田・平野・服部・真野・鈴木・河村・光賀)に守られながら、津島へやってきて津島神社の神主となったとされ、良王君の父・尹良親王(ゆきよししんのう)の菩提寺が大龍寺、良王君の菩提寺が瑞泉寺とされます。
 室町時代末期には尾張を代表する湊町となっており、『宗長日記』にその様子が描写されています。そして、この時代、織田信長の父、織田信秀が現れました。当時、守護大名・斯波氏のもと、織田家直系が尾張全域を治めていましたが、織田信秀は分家の奉行の一人で、津島近郊の勝幡に城を構えており、信長の姉を津島の豪族に嫁がせ、津島と友好を結び、勢力を広げ尾張四郡を統一しました。信秀の二男・信長は勝幡城で生れ、信秀の勢力拡大に伴い、那古野城(現在の名古屋城)へ、尾張統一後、清須城(現在の清洲城)へ移りました。信長飛躍の原動力は津島湊の経済力と指摘する歴史学者もいますように、信長にとって、津島は“台所”のような存在だったようで、天王まつりを見物したり、踊りを舞ったりして楽しんだ、という記録が残っています。このように、織豊時代には津島衆と呼ばれる人々も大いに活躍しています。服部小平太、平野長泰などです。
 江戸時代に入っても、津島は湊町、そして、津島牛頭天王社の門前町として大いに繁盛しました。京都と江戸を結ぶ東海道は熱田から桑名へ“七里の渡し”となっていましたが、熱田から津島・佐屋を経て桑名へ陸路があり、津島牛頭天王社へ参詣する旅人でも賑わいました。
 江戸時代は町衆の豊かさを背景に町民文化が花咲きました。津島でも秋まつりが始まったり、天王まつりは、浮世絵の題材になったり、屏風絵が描かれたりしました。さらに、尾張藩でも名古屋を中心に“お茶の文化”が発展しました。津島市内にもお茶室や庭園といった名残が残されています。
 このように、湊町として人や物資が行き交う津島でしたが、水害を防ぐため治水技術が進み、江戸時代中期に天王川が、明治時代には佐屋川が締め切られることにより、津島の湊町としての機能は失われ、現在では湊があったことを知る由もない状況です。
 一方、明治維新時の神仏分離令、あるいは戦後の政教分離政策は、津島神社にも打撃を与えましたが、今も、病気平癒、厄除けの神様として親しまれています。
 明治・大正・昭和初期の津島は、片岡春吉の功績などにより綿織物、毛織物産業が栄え、「ガチャマン景気」(織物機械が一回ガチャンと音を立てるごとに1万円売り上げたと言われるほど良い景気)と呼ばれた時代もありました。この時代、野口米次郎のように渡米して成功した偉人も現れました。
 現在の津島は、古い歴史を有し、その歴史に培われた文化を保ちながら、名古屋市のベッドタウンとして、また、愛知県西部の中核都市としての役割を担っています。