清正公社
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写真は清正公社全景
清正公社 せいしょうこうしゃ
上河原町 駐車場なし
 明治18年に加藤清正の徳を偲んで、清正の叔父の屋敷跡と伝えられる地に建てられました。上河原町には鬼祭が伝わっており、市の民俗文化財に指定されています。この祭りは清正(虎之助)の泥棒退治古事に由来します。
 …虎之助は少年時代、叔父の家に寄宿していました。そんなある日、盗賊が侵入しました。機転をきかした虎之助は“つづら”の中に隠れました。そんなことは知らない盗賊達は宝が入っていると思ってつづらを持ち出しました。盗賊達が村外れで宝物を取り出そうとつづらを開けた時、鬼の面を付けた虎之助が出てきたため、泥棒は「オニだぁ!」と驚いて何も捕らず逃げ去ったそうです。めでたし、めでたし…。清正公社にある絵には、この様子が描かれています。鬼祭では、赤鬼、青鬼、山伏などの一行とともに男衆が謡い囃(うたいはやし)しながら練り歩きます。

<備考>
 加藤清正(1562〜1611年)は幼名を虎之介といい、父を亡くし母と共に津島へ来ました。その後、清正は木下藤吉郎(豊臣秀吉)の家来となり、賤ヶ岳七本槍で武名を上げ、天正16年(1588年)には肥後半国を与えられ熊本城主となりました。石田三成らと反目し、関ヶ原の合戦では東軍に属しました。関ヶ原の合戦後、肥後一国に加増され、熊本城を築いて城下町を整備し、領内の治水や干拓事業にも尽力しました。清正死後の寛永9年(1632年)三男・忠広の時除封され、加藤家は断絶しました。

<周辺情報>
 清正公社の横の道はかつての天王川堤防上に続いていた道で、今でも細い路地となって続いています。この道を清正公社から北へしばらく行くと「津島の大椋跡」があります。国指定の天然記念物であった椋の木は平成5年に倒れてしまいましたが、小さな椋が育っています。この辺りには、江戸時代初期、尾張藩祖・徳川義直の屋敷「津島御殿」があったと伝えられています。


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